約 32,891 件
https://w.atwiki.jp/studykorea/pages/241.html
トップページ>論文アンソロジー>朝鮮時代の韓国と日本 韓日関係史学会韓日文化交流基金編『朝鮮時代の韓国と日本:同じ点と異なる点、交流と葛藤の歴史』景仁文化社、2013年 基調講演 鄭在貞「歴史のなかの韓日関係と文明交流」 主題発表 国家史の比較:権力・当地理念と構造孫承認喆「朝鮮、王朝国家の体制と特徴」 北島万次「幕府制国家の構造と特徴」 支配属の比較:両班と武士신명호「三学士伝と忠臣蔵に表象された両班と武士の忠義比較」 豊島悠果「日本中世武家の婚姻・相続と「家」:韓国中世「士」との比較を通じて」 民衆・生活相の比較이상배「朝鮮時代民衆の生活相」 荒木和憲「中世対馬・松浦地域の海民比較」 宗教観の比較兪成善「韓国儒教の宗教性認識論議」 허남린「朝鮮からみた近世日本の宗教文化」 相互認識の比較河宇奉「近勢韓日両国の相互認識」 関周一「相互認識の比較」 両国の外交政策と使節韓文鐘「朝鮮前期対日外交政策と使節の派遣」 橋本雄「室町幕府の対朝鮮外交」 홍성덕「朝鮮後期対日外交政策と外交使節」 鶴田啓「江戸幕府の外交政策と外交使節」 貿易関係鄭成一「朝鮮時代韓・日経済交流:米綿と蔘銀の交換を中心に」 須田牧子「中世日朝関係における大蔵経」 文化交流閔徳基「朝鮮後期韓日間文化交流:1763年癸未通信使行の肯定的な日本観察を中心に」 伊東幸司「宣宗からみた日本と高麗・朝鮮の交流」 地域間の交流이훈「朝鮮人漂流民の長崎滞留と交流」 佐伯弘次「地域間交流:中世日朝関係における地域の視点」 総合討論
https://w.atwiki.jp/lovekorea/pages/5.html
朝鮮人警察リスト
https://w.atwiki.jp/sakura398/pages/512.html
在日朝鮮人の「強制連行された!」の嘘 在日朝鮮人・韓国人のルーツと三国人の由来 <目次> ■在日朝鮮人の正体 (結論) ■在日朝鮮人の証言 ■新聞記事大半、自由意思で居住。外務省、在日朝鮮人で発表。戦時徴用は245人(1959年7月13日 朝日新聞) 在日朝鮮人、戦時徴用はわずか245人(2010.03.11 産経新聞) ■「在日特権を許さない市民の会」による見解 ■書籍 ■雑誌●正論2003年6月号掲載 評論家 黄 文雄 ●朝鮮人によるマスコミへの卑劣な圧力が無かった頃は、朝日新聞も大量の密入国者がいる事実を報道してました。 ■2chスレ ■在日年表 ■在日朝鮮人の身勝手な主張 ■アンケート ■在日朝鮮人の正体 (結論) | 大半が密入国の犯罪者 朝鮮半島への帰国事業を拒否し、自分の意思で日本に残った者 ■在日朝鮮人の証言 http //www.nicovideo.jp/watch/sm2189052 韓昌祐の過去(密入国の犯罪者) | 上記のように、朝鮮人自らも密入国してきたと認めています。 戦後に自由意志で日本に移住してきた朝鮮人がほとんどです。 勝手に日本に来た犯罪者でありながら「差別だ!」と叫んでいます。 韓昌祐(ハン・チャンウ)マルハン会長は密入国者の中でもまだまともな方で、 彼自身「在日韓国人・朝鮮人は世界で最も立ち遅れた民族」と認めています。 ■新聞記事 | 現在、反日マスコミとして名高い朝日新聞ですが、 反日報道が本格化する直前の1959年7月13日の記事では、 朝鮮人のほとんどが自由意志で日本にやってきたと報道しています。 <参考> (なお、朝日新聞の反日報道が本格化するのは1959年12月25日の 北朝鮮礼賛キャンペーン開始 頃と思われます。 詳しくは朝日新聞の不祥事年表をご覧ください。) 大半、自由意思で居住。外務省、在日朝鮮人で発表。戦時徴用は245人(1959年7月13日 朝日新聞) | 在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。 これによれば在日朝鮮人の総数は約61万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者は245人にすぎないとされている。 主な内容は次の通り。 一、戦前(昭和14年に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で、終戦直前(昭和20年)には約200万人となった。 増加した100万人のうち、70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。 残りの30万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきたもので、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。 また、国民徴用令は日本内地では昭和14年7月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ、昭和19年9月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年3月の下関-釜山間の運航が止るまでのわずか7ヶ月間だった。 一、終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引揚げで合計140万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引揚計画で350人が帰還するなど、終戦時までに在日していたもののうち75%が帰還している。 戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。 現在、登録されている在日朝鮮人は総計約61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は245人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留したものである。 (1959年7月13日 朝日新聞) 在日朝鮮人、戦時徴用はわずか245人(2010.03.11 産経新聞) http //sankei.jp.msn.com/politics/policy/100311/plc1003111306007-n1.htm 戦時中の徴用令によって日本に渡航し、昭和34年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だったことが10日、分かった。自民党の高市早苗元沖縄・北方担当相の資料請求に対し、外務省が明らかにした。 資料は34年7月11日付で、245人について「みな自分の自由意思によって日本に留った者または日本生まれだ。日本 政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き一名もいない」と結論付けている。 永住外国人に地方参政権(選挙権)を付与する法案の推進派は、在日韓国・朝鮮人が自分の意思に反し日本に住んでいることを理由の1つとして挙げてきた。 ■「在日特権を許さない市民の会」による見解 在日特権を許さない市民の会2-1(H18.11.20) 在日特権を許さない市民の会2-2(H18.11.20 ) ■書籍 | ■ 在日・強制連行の神話 鄭 大均 (著)「在日の多くは海峡を自らの意志で越えたのだ。在日は強制連行されてきた人々とその末裔だとする主張がある。が、一世の証言に丹念にあたれば、それが虚構にすぎないことが分る」 ■ これでは困る韓国―ニューカマー韓国人の対話 崔 吉城 (著, 原著), 呉 善花 (著, 原著) 呉「在日の人たちにしても、植民地時代も自分の意志で積極的にきた人のほうがずっと多いんじゃないですか。強制連行で連れてこられた人たちはほとんど帰ってしまったわけですから。」崔「そこはいいポイントです。事実はまさしくその通りなんです。」 ■ 歴史を偽造する韓国―韓国併合と搾取された日本 中川 八洋 (著)「GHQは「在日」の朝鮮人の”帰国”に過剰ほどの支援をなして、すべての希望者に帰国のための無料の船便を提供しています。」 ■雑誌 | ●正論2003年6月号掲載 評論家 黄 文雄 「誇り高き台湾少年工と「強制連行」どころか勝手に日本に殺到した朝鮮人の落差」 ●朝鮮人によるマスコミへの卑劣な圧力が無かった頃は、朝日新聞も大量の密入国者がいる事実を報道してました。 『朝日新聞 1959年6月16日付』 (「世界」 2000年10月号 戦後日本「在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹)より 「密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られている」 ■2chスレ | http //society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1164977801/ 自称在日朝鮮人1世の大半が密入国犯罪者 ■在日年表 | 1909 <伊藤博文暗殺> 1910 <日韓併合条約>1945年まで併合 1917 在日朝鮮人居住人口・14502人(内務省調査) 1920 在日朝鮮人居住人口・30189人 1920~ 日本の各地に住み着いた朝鮮人が急増、付近住民とトラブル →「朝鮮人内地渡航制限」を実施 1923 <関東大震災> 1925 在日朝鮮人居住人口・129870人 1930 在日朝鮮人居住人口・298091人 1932 「桜田門事件」李奉昌が昭和天皇の馬車に爆弾を投げつけた 1935 在日朝鮮人居住人口・625678人 1939 <第二次世界大戦勃発> 1939 「朝鮮民事令」改正。1940施行。創氏改名 1939~ 「朝鮮人内地移送計画」始まる。32万人の労働者が渡日。 この32万人は1945からの帰国船で優先的にほとんど帰国 1939 福岡のみで毎月200名余りの密入国者 1940 在日朝鮮人居住人口・1190444人 1941 <日米開戦> 1941 在日朝鮮人居住人口・1469230人 1942 在日朝鮮人居住人口・1625054人 1943 在日朝鮮人居住人口・1882456人 1944 在日朝鮮人居住人口・1936843人 1944.9~1945.3 朝鮮半島での「徴用」。 1944.12~1948.8.15 「朝鮮人内地渡航制限」策撤廃により、大量の朝鮮人が日本に流れ込む。 1945 在日朝鮮人居住人口・2365263人 1945.4~1945.8 朝鮮半島での「徴兵」。これ以前の志願兵制度では競争率40倍。 半島から約24万人参戦、約2万人戦死 1945 <第二次大戦終戦> 1945~1946.12 GHQが無料で「在日朝鮮人帰国船事業」。 当初GHQは2百万の在日朝鮮人を帰国させる方針だったが 韓国は政治・経済ともに混乱を極め、コレラなども流行して、帰国者は事実上ストップした。 1946 「首相官邸デモ事件」朝鮮人2千人が首相官邸にデモ行進、 官邸に進入しようとし警官隊と大乱闘。検挙者15名 1946 密入国者・強制送還者。21420名・15925名(警察庁調) 1947 GHQの命令で「外国人登録令」が在日韓国・朝鮮人等に施行。密入国・米の不正受給防止が目的。 1947 密入国者・強制送還者。6888名・6296名 1948 密入国者・強制送還者。8500名・6207名 1948 米軍政部が山口で「朝鮮学校閉鎖命令」以降、兵庫・大阪・東京も。 文部省・朝連間で私立学校として認可する事で妥結 1948 「4.24阪神教育事件」大阪市・神戸市、朝鮮人学校問題で 在日朝鮮人2500名が府県庁を包囲、知事等を軟禁。 進駐軍が非常事態宣言。首謀者は軍事裁判に、一部は国外追放。検挙者1800名 1948 <大韓民国独立>8.15 1948 <朝鮮民主主義共和国樹立>9.9 1949 密入国者・強制送還者。1641名・7663名 1950 密入国者・強制送還者。3612名・2319名 1950 <朝鮮戦争勃発> 実は朝鮮戦争の時に密入国した在日が一番多いという話もある 1951 「王子事件」十条の朝鮮人学校が捜索され、 これに反対する無届集会の解散を命じられるが抵抗。検挙者8名 1951 「日野事件」滋賀県で朝鮮人50名が強制送還反対を叫び警察と衝突。 警察側の重軽傷者25名、検挙者35名 1951 密入国者・強制送還者。4847名・1172名 1952 「吹田事件」在日朝鮮統一戦線系学生1100名が警官隊と衝突。 拳銃2丁奪い交番2ヶ所・工場襲撃。検挙者113名 1953 「外国人登録法」制定。反対運動の為施行は1955。指紋押捺制度は韓国からの密入国者が多かった為と、 日本経由の北の工作員対策で韓国政府が強く要請した為に始まる 1952 密入国者・強制送還者。3263名・2320名 1953 密入国者・強制送還者。1404名・2685名 1953 <朝鮮戦争休戦> 1954 「第二神戸事件」旧朝連系900名が警官隊と衝突。 長田区役所、税務署の窓ガラス等を破壊。検挙者188名 1959 「北朝鮮帰国事業」10万人弱の朝鮮人が帰国するが、北の実状が伝わるとともに誰も帰国しなくなる 1965 <日韓基本条約調印> 1965 「 朝鮮人強制連行の記録 」出版。この本をきっかけに在日が強制連行と偽り始める ~1970頃 乞食だらけのソウルをみて帰国を諦め、半分以上が朝鮮籍から韓国籍になり、永住権を取得 1970 「日立就職差別事件」韓国籍を隠して採用試験を受け、採用取消しとなる。この事件を契機に 朝鮮人の権利取得運動が活発になり、1985頃までに年金・保険等日本人と同等の権利を得る事になる 1974 「朴大統領狙撃」夫人が死亡。犯人が在日韓国人だった為、 韓国政府の要請で1980頃まで在日への取締まり厳しく 1977 「五箇条の御誓文」国税庁と朝鮮商工連間の合意。所得税法で定められた税金を支払わなくて良い等 1982 「外国人登録法」改正。指紋押捺開始が14歳から16歳、切替え3年から5年に 1985 2万人を越える在日外国人が指紋押捺拒否 1991 「出入国管理特例法」永住手続きの簡素化、退去強制は重大犯罪に限定等 1998 特別永住者(=在日)・52万8450名、一般永住者・2万6425名(入国管理局調) ■在日朝鮮人の身勝手な主張 http //www.nicovideo.jp/watch/sm4316838 この動画は今の日本の縮図だ すべて政治家が悪い | 反日マスコミの報道の仕方が良く分かる動画です。 密入国の犯罪者でありながら、在日朝鮮人は身勝手な権利主張をしています。 また、それを支援する日本人も存在しています。 ■アンケート | 朝鮮人強制連行に関するアンケートを 朝鮮人強制連行に関するアンケート にて受け付けております。 ぜひご協力ください。 | ↓朝鮮人強制連行の嘘を多くの方に知らせたい方はクリック! #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (人気ブログランキングへ) ご協力ありがとうございました。
https://w.atwiki.jp/sekaishikaiwai/pages/14.html
2acd3f7602b54bd6.jpeg 概要 名前の通り朝鮮人民軍に所属している博麗霊夢。Twitter登録時期は2017年4月とかなりの古参。ただし活動開始は2018年秋頃。 最近朝鮮労働党に入党できた模様。 ↓このツイートによる 4bd8dfb921600290.jpeg
https://w.atwiki.jp/akiyuu323/pages/14.html
あっ 見つかった ここでは、危ないプレカラの作り方を紹介します。 ペンで起こった事故や事件は、いっさい責任は負いません では作り方を紹介!!
https://w.atwiki.jp/kolia/pages/23.html
在日朝鮮人の「強制連行された!」の嘘 在日朝鮮人・韓国人のルーツと三国人の由来 <目次> ■在日朝鮮人の正体 (結論) ■在日朝鮮人の証言 ■新聞記事大半、自由意思で居住。外務省、在日朝鮮人で発表。戦時徴用は245人(1959年7月13日 朝日新聞) 在日朝鮮人、戦時徴用はわずか245人(2010.03.11 産経新聞) ■「在日特権を許さない市民の会」による見解 ■書籍 ■雑誌●正論2003年6月号掲載 評論家 黄 文雄 ●朝鮮人によるマスコミへの卑劣な圧力が無かった頃は、朝日新聞も大量の密入国者がいる事実を報道してました。 ■2chスレ ■在日年表 ■在日朝鮮人の身勝手な主張 ■アンケート ■在日朝鮮人の正体 (結論) | 大半が密入国の犯罪者 朝鮮半島への帰国事業を拒否し、自分の意思で日本に残った者 ■在日朝鮮人の証言 http //www.nicovideo.jp/watch/sm2189052韓昌祐の過去(密入国の犯罪者) | 上記のように、朝鮮人自らも密入国してきたと認めています。 戦後に自由意志で日本に移住してきた朝鮮人がほとんどです。 勝手に日本に来た犯罪者でありながら「差別だ!」と叫んでいます。 韓昌祐(ハン・チャンウ)マルハン会長は密入国者の中でもまだまともな方で、 彼自身「在日韓国人・朝鮮人は世界で最も立ち遅れた民族」と認めています。 ■新聞記事 | 現在、反日マスコミとして名高い朝日新聞ですが、 反日報道が本格化する直前の1959年7月13日の記事では、 朝鮮人のほとんどが自由意志で日本にやってきたと報道しています。 <参考> (なお、朝日新聞の反日報道が本格化するのは1959年12月25日の北朝鮮礼賛キャンペーン開始 頃と思われます。 詳しくは朝日新聞の不祥事年表をご覧ください。) 大半、自由意思で居住。外務省、在日朝鮮人で発表。戦時徴用は245人(1959年7月13日 朝日新聞) | 在日朝鮮人の北朝鮮帰還をめぐって韓国側などで「在日朝鮮人の大半は戦時中に日本政府が強制労働をさせるためにつれてきたもので、いまでは不要になったため送還するのだ」との趣旨の中傷を行っているのに対し、外務省はこのほど「在日朝鮮人の引揚に関するいきさつ」について発表した。 これによれば在日朝鮮人の総数は約61万人だが、このうち戦時中に徴用労務者として日本に来た者は245人にすぎないとされている。 主な内容は次の通り。 一、戦前(昭和14年に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で、終戦直前(昭和20年)には約200万人となった。 増加した100万人のうち、70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。 残りの30万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきたもので、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。 また、国民徴用令は日本内地では昭和14年7月に実施されたが、朝鮮への適用はさしひかえ、昭和19年9月に実施されており、朝鮮人徴用労務者が導入されたのは、翌年3月の下関-釜山間の運航が止るまでのわずか7ヶ月間だった。 一、終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引揚げで合計140万人が帰還したほか、北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引揚計画で350人が帰還するなど、終戦時までに在日していたもののうち75%が帰還している。 戦時中に来日した労務者、復員軍人、軍属などは日本内地になじみが薄いため終戦後、残留した者はごく少数である。 現在、登録されている在日朝鮮人は総計約61万人で、関係各省で来日の事情を調査した結果、戦時中に徴用労務者としてきた者は245人にすぎず、現在、日本に居住している者は犯罪者を除き、自由意思によって在留したものである。 (1959年7月13日 朝日新聞) 在日朝鮮人、戦時徴用はわずか245人(2010.03.11 産経新聞) http //sankei.jp.msn.com/politics/policy/100311/plc1003111306007-n1.htm 戦時中の徴用令によって日本に渡航し、昭和34年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だったことが10日、分かった。自民党の高市早苗元沖縄・北方担当相の資料請求に対し、外務省が明らかにした。 資料は34年7月11日付で、245人について「みな自分の自由意思によって日本に留った者または日本生まれだ。日本 政府が本人の意志に反して日本に留めているような朝鮮人は犯罪者を除き一名もいない」と結論付けている。 永住外国人に地方参政権(選挙権)を付与する法案の推進派は、在日韓国・朝鮮人が自分の意思に反し日本に住んでいることを理由の1つとして挙げてきた。 ■「在日特権を許さない市民の会」による見解 在日特権を許さない市民の会2-1(H18.11.20) 在日特権を許さない市民の会2-2(H18.11.20 ) ■書籍 | ■在日・強制連行の神話 鄭 大均 (著)「在日の多くは海峡を自らの意志で越えたのだ。在日は強制連行されてきた人々とその末裔だとする主張がある。が、一世の証言に丹念にあたれば、それが虚構にすぎないことが分る」 ■これでは困る韓国―ニューカマー韓国人の対話 崔 吉城 (著, 原著), 呉 善花 (著, 原著) 呉「在日の人たちにしても、植民地時代も自分の意志で積極的にきた人のほうがずっと多いんじゃないですか。強制連行で連れてこられた人たちはほとんど帰ってしまったわけですから。」崔「そこはいいポイントです。事実はまさしくその通りなんです。」 ■歴史を偽造する韓国―韓国併合と搾取された日本 中川 八洋 (著)「GHQは「在日」の朝鮮人の”帰国”に過剰ほどの支援をなして、すべての希望者に帰国のための無料の船便を提供しています。」 ■雑誌 | ●正論2003年6月号掲載 評論家 黄 文雄 「誇り高き台湾少年工と「強制連行」どころか勝手に日本に殺到した朝鮮人の落差」 ●朝鮮人によるマスコミへの卑劣な圧力が無かった頃は、朝日新聞も大量の密入国者がいる事実を報道してました。 『朝日新聞 1959年6月16日付』 (「世界」 2000年10月号 戦後日本「在日外国人」の虚像と実像 原尻英樹)より 「密入出国をしたまま登録をしていない朝鮮人がかなりいると見られている」 ■2chスレ | http //society6.2ch.net/test/read.cgi/korea/1164977801/ 自称在日朝鮮人1世の大半が密入国犯罪者 ■在日年表 | 1909 <伊藤博文暗殺> 1910 <日韓併合条約>1945年まで併合 1917 在日朝鮮人居住人口・14502人(内務省調査) 1920 在日朝鮮人居住人口・30189人 1920~ 日本の各地に住み着いた朝鮮人が急増、付近住民とトラブル →「朝鮮人内地渡航制限」を実施 1923 <関東大震災> 1925 在日朝鮮人居住人口・129870人 1930 在日朝鮮人居住人口・298091人 1932 「桜田門事件」李奉昌が昭和天皇の馬車に爆弾を投げつけた 1935 在日朝鮮人居住人口・625678人 1939 <第二次世界大戦勃発> 1939 「朝鮮民事令」改正。1940施行。創氏改名 1939~ 「朝鮮人内地移送計画」始まる。32万人の労働者が渡日。 この32万人は1945からの帰国船で優先的にほとんど帰国 1939 福岡のみで毎月200名余りの密入国者 1940 在日朝鮮人居住人口・1190444人 1941 <日米開戦> 1941 在日朝鮮人居住人口・1469230人 1942 在日朝鮮人居住人口・1625054人 1943 在日朝鮮人居住人口・1882456人 1944 在日朝鮮人居住人口・1936843人 1944.9~1945.3 朝鮮半島での「徴用」。 1944.12~1948.8.15 「朝鮮人内地渡航制限」策撤廃により、大量の朝鮮人が日本に流れ込む。 1945 在日朝鮮人居住人口・2365263人 1945.4~1945.8 朝鮮半島での「徴兵」。これ以前の志願兵制度では競争率40倍。 半島から約24万人参戦、約2万人戦死 1945 <第二次大戦終戦> 1945~1946.12 GHQが無料で「在日朝鮮人帰国船事業」。 当初GHQは2百万の在日朝鮮人を帰国させる方針だったが 韓国は政治・経済ともに混乱を極め、コレラなども流行して、帰国者は事実上ストップした。 1946 「首相官邸デモ事件」朝鮮人2千人が首相官邸にデモ行進、 官邸に進入しようとし警官隊と大乱闘。検挙者15名 1946 密入国者・強制送還者。21420名・15925名(警察庁調) 1947 GHQの命令で「外国人登録令」が在日韓国・朝鮮人等に施行。密入国・米の不正受給防止が目的。 1947 密入国者・強制送還者。6888名・6296名 1948 密入国者・強制送還者。8500名・6207名 1948 米軍政部が山口で「朝鮮学校閉鎖命令」以降、兵庫・大阪・東京も。 文部省・朝連間で私立学校として認可する事で妥結 1948 「4.24阪神教育事件」大阪市・神戸市、朝鮮人学校問題で 在日朝鮮人2500名が府県庁を包囲、知事等を軟禁。 進駐軍が非常事態宣言。首謀者は軍事裁判に、一部は国外追放。検挙者1800名 1948 <大韓民国独立>8.15 1948 <朝鮮民主主義共和国樹立>9.9 1949 密入国者・強制送還者。1641名・7663名 1950 密入国者・強制送還者。3612名・2319名 1950 <朝鮮戦争勃発> 実は朝鮮戦争の時に密入国した在日が一番多いという話もある 1951 「王子事件」十条の朝鮮人学校が捜索され、 これに反対する無届集会の解散を命じられるが抵抗。検挙者8名 1951 「日野事件」滋賀県で朝鮮人50名が強制送還反対を叫び警察と衝突。 警察側の重軽傷者25名、検挙者35名 1951 密入国者・強制送還者。4847名・1172名 1952 「吹田事件」在日朝鮮統一戦線系学生1100名が警官隊と衝突。 拳銃2丁奪い交番2ヶ所・工場襲撃。検挙者113名 1953 「外国人登録法」制定。反対運動の為施行は1955。指紋押捺制度は韓国からの密入国者が多かった為と、 日本経由の北の工作員対策で韓国政府が強く要請した為に始まる 1952 密入国者・強制送還者。3263名・2320名 1953 密入国者・強制送還者。1404名・2685名 1953 <朝鮮戦争休戦> 1954 「第二神戸事件」旧朝連系900名が警官隊と衝突。 長田区役所、税務署の窓ガラス等を破壊。検挙者188名 1959 「北朝鮮帰国事業」10万人弱の朝鮮人が帰国するが、北の実状が伝わるとともに誰も帰国しなくなる 1965 <日韓基本条約調印> 1965 「朝鮮人強制連行の記録 」出版。この本をきっかけに在日が強制連行と偽り始める ~1970頃 乞食だらけのソウルをみて帰国を諦め、半分以上が朝鮮籍から韓国籍になり、永住権を取得 1970 「日立就職差別事件」韓国籍を隠して採用試験を受け、採用取消しとなる。この事件を契機に 朝鮮人の権利取得運動が活発になり、1985頃までに年金・保険等日本人と同等の権利を得る事になる 1974 「朴大統領狙撃」夫人が死亡。犯人が在日韓国人だった為、 韓国政府の要請で1980頃まで在日への取締まり厳しく 1977 「五箇条の御誓文」国税庁と朝鮮商工連間の合意。所得税法で定められた税金を支払わなくて良い等 1982 「外国人登録法」改正。指紋押捺開始が14歳から16歳、切替え3年から5年に 1985 2万人を越える在日外国人が指紋押捺拒否 1991 「出入国管理特例法」永住手続きの簡素化、退去強制は重大犯罪に限定等 1998 特別永住者(=在日)・52万8450名、一般永住者・2万6425名(入国管理局調) ■在日朝鮮人の身勝手な主張 http //www.nicovideo.jp/watch/sm4316838この動画は今の日本の縮図だ すべて政治家が悪い | 反日マスコミの報道の仕方が良く分かる動画です。 密入国の犯罪者でありながら、在日朝鮮人は身勝手な権利主張をしています。 また、それを支援する日本人も存在しています。 ■アンケート | 朝鮮人強制連行に関するアンケートを 朝鮮人強制連行に関するアンケート にて受け付けております。 ぜひご協力ください。 | ↓朝鮮人強制連行の嘘を多くの方に知らせたい方はクリック! #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (人気ブログランキングへ) ご協力ありがとうございました。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/759.html
朝鮮人軍夫のこと 垣花 武一※阿嘉島 私たち義勇隊の仕事は、日を追って厳しくなっていった。特にきつい仕事が水汲みであった。大勢の兵隊の水を供給しなければならないので、米軍からかすめてきた五ガロン入りの水缶に水をいっぱい入れて、谷間から本部の壕(タキバル)まで運んでいくのである。水を汲むといっても、井戸があるわけではなく、チョロチョロ流れる川のせせらぎをせきとめて、溜めては汲みの繰り返しであった。一時間に二〇リットルほどは汲めただろうか。それを数往復して、運んで行くのである。 また食糧運搬は、炊事班のある谷間まで四、五人の兵隊の引率で出かけ、 「本部、飯上(めしあ)げにきました」 といって、人数分を缶のバケツに入れてもらい、担いでいった。その中には、私たち義勇隊の分もふくまれていた。ただ食事の内容は雑炊で、五月ごろまではわずかの米が入っていたが、その後は米つぶなしの味もそっけもないキャベツやツワブキの茎だけの雑炊に変わった。 空襲で、島の食糧のほとんどが焼かれた上に、三カ月以上も山ごもりしていては、食糧がなくなるのは当然のことである。 五月に入ったころだっただろうか、本部と二中隊の壕の中間あたりに、朝鮮人軍夫たちが縦、横五、六メートル、深さ二メートルほどの穴を、二ヶ所に掘っている。何をするのかと思っていたら、そのうちに穴を掘った彼らがその中に入れられ、上から丸太棒数本が格子状に組まれて穴を塞ぐ格好で横たえられた。逃げられないよう閉じ込めてしまったのである。それまで、軍夫が多数米軍に投降しており、これ以上逃亡を許さないという、日本軍の思惑があったからかも知れない。 中をのぞいてみると、座るスペースもないほど朝鮮人がびっしり詰められている。歩哨は防衛隊があたり、彼らの食事は、現在の小さなさばかん詰めの大きさの器八分くらいであった。 朝鮮人軍夫の食事は、当初から差別されていた。兵隊たちがごはんのときはおかゆ、おかゆのとき、は粗末な雑炊という具合で、穴に入れられてからは、米粒が入っているかどうかのおかゆであった。 彼らは用便のとき以外は一切外に出してもらえず、用便を告げた者に対してははしごを下ろし、他の者が登ってこないよう銃剣が向けられた。ある日、軍夫の中でも屈強の男性が一人用便を申し入れた。例のごとく地元出身の防衛隊員が外に出したところ、その軍夫がいきなり逃げ出したのである。大騒ぎとなり、緊急手配して捕まえてきたが、彼は一晩中、松の木に縛りつけられたあと、兵隊によって処刑されてしまった。朝鮮人軍夫の処刑については、住民の多くが目撃しているが、私が直接みたのはその一例だけである。 食糧が底をついたのは六月に入ってからであった。そのころから、軍は住民が勝手に田や畑から稲や芋、野莱を持ち出すのを禁じ、整備中隊の兵隊が監視するようになった。それだけではない。 阿嘉島に生えている木や草の一本とて、軍の命令がない限り取ってはいけない、もし見つけたら処刑する とまでいうようになっていた。もはや住民にとっての敵は米軍ではなく、友軍となってしまったのである。 集団自決と日本兵の住民虐殺
https://w.atwiki.jp/joban_415/pages/1056.html
ちょうせんちゅうおうぎんこうにほんしてん【朝鮮中央銀行日本支店】[名詞] 朝鮮総連の蔑称。北朝鮮のミサイル開発費用を捧げている。
https://w.atwiki.jp/scratch-kasoukokka/pages/365.html
レイシア連邦とは、scratchに存在する仮想国家である。ただし、私が運営しているレイシア連邦(朝鮮)は2023年建国の国家であり、同国名のレイシア連邦(令和連邦)とは一切関りはない。 概要 国旗 (未定) 標語 「自由とoilと人民」「oil‼oil‼oil‼」「ご注文は核ミサイルですか?」 公用語 英語、日本語、オンドゥル語、他多数 領土 朝鮮半島とかいろいろ 人口 3億人らしい。 首都 ピョンヤーンゥ特別行政市 指導者 (未定) 政党 極右政党連合 議会 統一国民議会 目次 目次 + ... 概要 目次 歴史 地理領土地図 州 政治 経済 歴史 当時、朝鮮半島の豪族だった金家が朝鮮北部に独立国を作ることを宣言。それによってできたのが東亜連邦である。(第一共和制) しかし、豪族を優遇する政策をとったため金家を批判する農民団が現れた。彼らは農民を中心に朝鮮解放軍を組織し、武器などを密輸し、蓄えていった。 この動きを察知した金家は政府軍を派遣し、武器を没収するよう命じたため、朝鮮解放軍との間で衝突し、第一次朝鮮戦争が勃発した。最初こそ有利だった政府軍だが清津包囲戦で敵主力に逆包囲を行われるという失態を行ったことで朝鮮解放軍が有利になった。その後、東亜連邦首都である平壌に無血入場し、内戦の終結を宣言した。(朝鮮の春) 金一族は朝鮮半島北部に「朝鮮共和社会民主主義人民共和国」を建国し初代指導者として金星井が就任。個人崇拝を進め、軍事増強に励む独裁国家となり国際的にも非難される。(第二共和制) (1/10) ついに金一族の独裁に反発し市民と政府軍が平壌で衝突。朝鮮内戦が開始。(1/12) 政府は大規模な軍を背景に反乱軍を北部に追い詰めるも、朝鮮共和党党首レイムスキーによる指導のもと、北部要衝の清津を奪還。徐々に政府軍内部でも反体制派が共和党に合流した事により、金政権は崩壊。1/18に朝鮮王宮にてレイムスキー・マリサスキーによる軍事連立政権が誕生。国名をアリシア連邦共和国に変更後、連邦議会制を導入し国の近代化を推し進めた。(第三共和制) しかし、安定した政治はほど遠く、軍部による圧力により実質国家全権は軍最高司令官であるマリサスキー元帥が握っていた。その後、海軍青年将校が議会に乱入しガトリングガンで議員26名を殺害する事件が発生し国民はより一層軍部に対する不満が募った。(1・28事件)。この事件をきっかけに軍部内でもマリサスキー元帥に対して不信感を抱く将校が増え、「マリサスキー元帥は我が国の汚点」とまで言われるようになった。これを聞きつけたマリサスキー元帥は直ちに反体制派を処刑。(血の月曜日事件)しかし、この行動に国民は激怒。朝鮮王宮を国民が囲みデモを起こした。マリサスキー元帥は彼らを鎮圧しようとしたが側近から「これ以上、国民を刺激すると内乱になる。」と助言されたため、放置した。 王宮包囲からおよそ4日後、ついにマリサスキー元帥は軍最高司令官・首相職・国家評議会議長職を辞任。これにより軍事連立政権は崩壊しアリシア連邦共和国は事実上解体された。 新政府代表に朝鮮共産党からムゥ・オォが選出。イングルシオ暫定政府が発足し、国内の平定を開始。当時最大勢力の人民戦線を徹底的に弾圧し最高指揮官を逮捕、処刑し人民戦線を強制的に解体させた。これを機に各地のゲリラ・軍閥が暫定政府に屈服し国内を1年で平定した。ムゥ・オォは国内の平定を宣言。国際社会への復帰を目指した。(第四共和制) しかし、当時のイングルシオの経済は崩壊しかけており、ハイパーインフレが加速。飢餓が発生し220万人が餓死する大惨事となった。暫定政府はイージア共和国連邦に食糧支援を申し出し、米50tの調達に成功。飢餓は一時的に収束した。 暫定政府は、国内経済の復興を掲げた「八ヵ年計画」を実行。土地及び企業の国営化を徹底した他、インフラ整備・鉱山開発・大規模農場の開発に注力。これにより、今までマイナスだった収支がプラスに変更。イングルシオの経済は回復した。 経済面での整備を整えた後、大統領選挙を実施。ムゥ・オォが選出され正式に大統領となった。大統領となったムゥ・オォは軍縮を開始。しかし、軍上層部はこの行動を危惧し軍隊の出動を命令。ムゥ・オォを拘束し軟禁した。軍最高司令官であるレイムスキーは軍事政権の復活を宣言。イングルシオ連邦は僅か3年で崩壊した。(第四共和制の崩壊) レイムスキーは過去の失敗から独裁体制の強化を開始。反体制派の粛清を徹底し、抵抗する者は容赦なく銃殺された。その後ユズリハ連邦を建国。(第五共和制) レイムスキーは各国との関係強化を図り、今まで冷戦が続いていた大ドイツ帝国と国交を正常化。冷戦の雪解けムードが始まった。その後、ジャーツ国・ミラノ連邦共和国・大ドイツ帝国・ユズリハ連邦の4カ国による軍事・経済同盟を設立。8pの主導権を握った。 しかし、大ドイツ帝国による一方的なオーハン解体により同盟機構は解体。また冷戦が始まった。レイムスキーは当時、中国の統一を進めていた中華帝国に接近。経済協力関係の構築に成功。莫大な富を築く事になった。 ある程度、国内の平定が進み反体制派の粛清が徐々に削減され完全に行なわれなくなった。レイムスキーは富を生かし大規模な軍事関連の施設を強化・建築した他、住宅・デパート・鉄道などを整備し国民の好感度を上げようとした。 しかしレイムスキーの独裁体制も終焉を迎える。レイムスキーによる軍事優先主義は国民の生活を圧迫反感を買った他、大ドイツが中華帝国との大規模な経済協力関係を築いた事により輸出額は減少し大規模な赤字が続いていた。これを機に国民による民兵組織「国民義勇軍」が結成。彼らは各地で反政府運動を指導し少しずつ勢力を拡大。レイムスキーはこの運動を危惧し戒厳令を敷いた。各地で銃声や叫び声が聞こえ、道端には死体が放置され最悪な状況となった。しかし国民義勇軍は根強く抵抗し、レイムスキーを追い詰めた。そしてついにレイムスキーが住む別荘の爆破に成功。レイムスキーは即死し、軍事政権の崩壊が始まった。国民義勇軍は各地を制圧し首都に無血入城。労働者による真の社会主義国家を目指し、新政権の樹立を宣言した。(第六共和制) 新政権はまず軍隊の解散を命令。450万人いた兵士の内13万人を除いて強制除隊させた。又、連邦議会を設置し政党政治による政治を開始した。サンディカリズム党、民主党、人民党が結党された1年後、指導者総選挙を実施。サンディカリズム党が勝利し連邦議会議長に就任した。 連邦議会長は経済重視の政策を実行。主に構成国との貿易を活発化させブロック経済を形成していった。(経済革命) 初代連邦議会長は任期を満了し辞任。総選挙が始まった。選挙の結果、旧体制派が勝利。彼らは軍国主義の流れを組む社会主義政党であるが、社会主義市場経済の導入や国営企業の民営化を促進するなど、国民の利益を最優先とする政権であった。(第二次朝鮮の春) 彼らも任期を満了し辞任。第三総選挙が始まった。選挙の結果、左翼連合が勝利。(しかし彼らの政治により再び朝鮮は危機に陥る。)彼らは大ドイツを真っ向から非難。独朝両国に緊張が走り8p大戦の機運が高まった。又、連邦議会制を廃止。指導者制を復活させ一党独裁体制を敷き、国名を朝鮮国に変更した。(第七共和制) 左翼連合は軟禁されていた、レイムスキー元帥の息子を解放し軍最高司令官に任命。積極的な軍拡を開始した。国民は反発すると思われたが最近の中華帝国の台頭に危機感を持っていたため政権に協力した。この時にようやく軍隊の近代化政策が完了。中華帝国へ対抗する準備を整えた。しかし左翼連合内で意見の違いから分裂。左翼連合革新派は政権を国民に返上し、政府を解体した。その後、サンディカリズム党が勝利。(第八共和制)「強い朝鮮」を掲げ、軍隊及び外交関係に注力。又、この時に民間軍事会社Rhys Coversを設立。諸外国への介入を進めた。 当時、中華帝国と対立関係にあった蒼海が我が国に接近し、多額の支援金と軍事物資の提供を開始してくれたため、青島市は国際都市へと変貌したと同時に中朝関係は悪化。青島にお互いの軍が睨み合う日々が続いた。その後、ハンブルク条約機構に加盟し、軍事支援を要請。青島市への駐屯をしてもらっている。 今のところ平和である…わけないだろ?そうや、内乱や。第八共和制はわずか4年で崩壊。サンディカリズムなのに貴族が存在し、国営化企業が大量離散し260社が乱立する戦国企業時代に突入したんや…。らしい。 そろそろどっかの陣営に入るか~と思い10月の初旬にクトネシリカに加盟し、西側陣営に参加した。 地理 領土地図 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (D0886728-D79D-435C-9393-A36981776BED.png) 深緑=領有している領土 緑=共同統治領 水色=領有している諸島部(EEZ) 赤色=領有権を主張している領土 州 州 ロシア特別州 朝鮮北部州 朝鮮南部州 山東半島特別州 東京州 南洋海域州 三沙諸島州 欧州統治州 アフリカ統治州 州を統治するのは州知事であり、独自の州政府を持つ。 政治 朝鮮国を統治するのは選挙により勝利した第一党が政権の運営を行う。指導者の任期は6年であり連続3選は禁止されている。 経済 朝鮮の主な輸出品 石油 鉄鉱石 金鉱石 チタン モリブテン ゴム レアメタル ウラン imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (DADFE28F-456E-4E90-B4BD-9C17FD159286.png) 朝鮮の主な輸入品 自動車 米 小麦 肉 imageプラグインエラー ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (C8D144D9-68C8-41DF-A0B6-445A45BE6AEF.png)
https://w.atwiki.jp/kanagawacoreabrass/pages/42.html